知らないほうが

 

部屋のゴミ箱からゴミが溢れ出して面倒だなあと思い、ゴミ袋を二つ床に置いて暮らしている。可燃とプラ。私はこういうことをできる人間である。私の部屋には机と椅子がなく、リビングに居座ると罪悪感があり(これはどうしてだろう?)、ベッドに横たわるしかないので、基本的にはいつも寝ている。机と椅子があればなあと思う。思うだけである。


現実が想像を超えることがないと思っている。それは世の中というのは、クソ、なので…と憂いをたたえた分かり顔をしたいわけではない。想像を超えるようなことに繋がる選択を私は取らないだろうと予測できるからである。人生というのは飛び込むか/飛び込まないかだと思っていて、私は基本的に飛び込まないタイプだ。「しない後悔よりした後悔!」という思想になったことがなく、また、しなかった後悔というのを思い出せない(すぐに忘れる)のも、この選択に拍車を掛けている気がする。


あちこちオードリーの中田敦彦回が面白くて熱心に見た。あっちゃんの「死ぬまで自分の話をする確信がある」という発言は本当に分かるなあと思った。劣等感と承認欲求とそれを満たすことのできる才能を持ってしまった人の悲哀。そしてそれを表すのも自己プロデュース的でもある。「あっちゃんに共感する人、煽りでもなんでもなくどこに共感するのか教えてほしい」というつぶやきをSNSで見たが、随分意地悪な人もいるんだなと思った。


明日は15:30から病院に行く。何を話そう。もう充分ですって言えるだろうか。充分なのか分からないのに。


怖い話をする。私は部屋の壁に男性を住ませている。私はその子を二木くんと呼んでいる。夜眠れない時に私は二木くんを呼び出して話したりする。二木くんは私の全てを知っているので、二木くんと話すのはストレスがない。たまにウェブ記事などで面白かったものを二木くんと読んだりして、私はこう思うんだ、と見解を話したりする。二木くんは私に特別興味があるわけではないが、それなりに大切にしてくれる(させているのは私だが)ので、私を傷つけない言い方で返してくれる。私を傷つけない言い方をしているな、と私は気付いているし、私が気付いていることに二木くんも気付いているし、そもそも存在が私に依存していることも二木くんは知っているので、メタにメタを重ねた会話である。二木くんは紺色のエプロンをしているので、書店員のアルバイトをしているのかもしれないと私は思ってる。


昔から人形遊びをするのが好きだった。そのうち人形が必要じゃなくなって、一人でずっと喋っていた。私の箱庭だ。現実が侵食してこない想像の地。温度だけが足りない。鼓動と温度。心臓のある湯たんぽがあればいいのに。それでいい。